Monday, September 20, 2010

ペニシリン(その14):当時の英国の新聞報道(3)

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ペニシリンをめぐる当時の英国の新聞報道(その3)
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----- つずき

こうしてつぎの2年間には、フレミングのインタビューとその記事のみが
数多く新聞に掲載された。世間の人はこうしてペニシリンの仕事がフレミン
グ1人によりすべて実現したと思った。この新聞の”ペニシリン物語り”は
より詳細に、まことしやかに書かれたため事実を知っている人々でさえ自分
の記憶を疑うほどになった。

事実は
第1,1929年から1941年にかけフレミングはペニシリン療法
ーーーについてはまったくなんの仕事もしていない。
第2, オックスフォード大学のフローリーらのチームが最初
ーーーにペニシリンを生産し動物実験をした。
第3, オックスフォード大学病院でフローリーらのチームが
ーーー最初に患者に投与し臨床治験をした。

新聞のキャンペーンではことごとくこれらの事実が無視され、まことしや
かな詳細な嘘がいろんな形を変えて現れた。1959年に出版されたマーロスの
フレミング自伝、 1974年発行のヒューズによって書かれたもの、さらに
1974年に出版された聖メアリー病院の微生物学者によるフレミングの物語な
ども事実をことごとくねじ曲げ、ペニシリンの生産や動物実験もフレミング
の研究室でなされ、最初の患者へ投与や臨床治験も聖メアリー病院でなされ
たと書いている。フローリー、オックスフォード大学という言葉は完全に削
除されどこにも出てこない。

どうしてこのような事実の歪曲が印刷され、宣伝され後には映画やテレビま
で作られたのか? 新聞記者は情報の正確さより“いい話”を作りだすこと
に主たる関心がある。

”フレミング神話”がなぜ成長したのか?

第1, フレミング自身もこれに一役かったのは疑いない。彼はプレスのイン
ーーータビュ−でフローリーの仕事、オックスフォード大学で行われたこと
ーーーをすべて省いた。
第2,  フレミングの背後にいた2人の人物。彼の上司であるライト博士,
ーーーそれと聖メアリー病院医学部長であり、チャーチル首相の主治医でも
ーーーあったモーラン卿。2人はともに名誉、栄光、資金欲が強かったこと
ーーーである。

こうした聖メアリー病院の新聞キャンペーン対するオックスフォード大学
の反応は複雑であった。”いずれ真実が明らかになる”という信念に基いた最
初の無関心は、真実は”紙”によって容易く反古にされるということが明らか
となり次第に腹立ちとなっていった。
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Gwyn Macfarlane, Howard Florey- the making of a great scientist,
1980, Oxford University press. から翻訳。


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